昭和四十七年八月二十五日 朝の御理解
御理解 第二十四節 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心 じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身か ら打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心という事を言う が、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそ ろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中 勢をそろえた信心をせよ。」 どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心と。その身から、只打ち込んだけでも、真の信心をそれておってはいけない。どうぞ、その身から打ち込んで本当の信心がわかりたい。本当の信心を頂きたいという願いを持ってというのであります。
その身から打ち込んでの真の信心をせよと。そういう願いを一つにした、そういう本当な信心を頂きたいと願わせて頂く者が勢を揃えたら、いよいよ大きな力になるという事。
只、沢山の者がわあわあ言うておるだけではいけない、いわゆる力のない者が、わあわあ言うごたるのだったら、こうやって持ち上げとるごたるけれども、反対にぶらさがっとるのがおるなら、かえっていけないもんですね。
ぶらさがったような信心では、いけない事がわかります。本気で打ち込んで信心、金光大神の例えば御信心にぶらさがったような信心をしておる者が、どれだけあっても、それはいわゆる烏合の衆とでも申しましょうか。
だから本当にその金光大神に、身も心も任せきった、いうなら、おんぶしたような信心です。
例えばそれを、そんなら教会でいうなら、教会長、ここでいうなら私、私の信心にぶらさがったような信心、もう親先生にお願いしとるけんでと。
昨日もある方が、本当に大事な、その人にとっても大事な事ですし、だからわざわざ呼びよせ、昨日はその方にある事を伝えました。
その人が言う事がいい、私は親先生に任せとりますからとこう言う。自分は一生懸命にすがろうとしない。すがるという事は今日私がいうぶらさがるという意味じゃないですよ。いうなら、親先生に任せておると、いうならば、本当に私に、いうならばおんぶするようなきもち。身も心も私に任せるというのでなからにゃならん。
親先生に任せとりますからではいかん。それはもう、任せてすがるという、そういう私は信心、そうすれば、例えば親先生が真の信心をしてあれば、もう真の信心にならにゃおられない事になる。身も心も任せておんぶしたような一緒に行動しとる。
だから、そういう信者が大勢で掛け声を一つにして、一つの願い事をさしてもらうならば、それはバラバラでは持ち上がらないものでも、持ち上がるようなおかげが受けられるという事を教えておられる。
いわゆる、がきも人数にいうけれども、そういう意味ではない。烏合の衆じゃつまらん。本当にそういう力をささやかでももった人達が、掛け声を揃えるという生き方にならにゃいかん。人に誘われてのしょうことなしの信心、このへんが大変に難しいところんですけどね。
私は今朝、御神前で御祈念中に頂いたのが、今はあんな事する人はありませんですけれども、引き臼でね米の粉をすっている。【 】にはもち米をすりますよ、今の若い人達は知らないくらいでしょう。
大豆なんかを煎ってひくと、黄粉が出てくるです。よう昔は婆達がやってました。 側で見ておるわけです。そしてよくその豆をガバッ-と入れたなら、さぞよかろうちょこっとづつ入れてから、いっぺんに中に入れてから、こうこうひいたらよかろうごたるですもんね。
ところがあれは本当にやはり、ひとまわり、何粒づついれていかなければよい粉が出てこんですね。あれは大体小さい穴ですから、あそこへいっぱい大豆を入れてゴロゴロひいたら、早かろうごたるけれども、決してそうじゃない。
私は信心を、しかも真の信心を目指して、信者が自分の周囲に出来ていく事は大変な事だと思うですね。やはり、いわゆるこの引き臼を引くあの辛抱強さ。ちょこっと引いちゃ止め、ちょこっと引いちゃ止めじゃいけん。もうそれは本当に一日がかりで一生懸命よどなんかの時はもう随分の時間をかけひきますね。
精米に持っていけばすぐ出来ますけど、昔はそれをお家で作らせて頂くだけの、饅頭の粉は家でひきよった。なかなか辛抱がいるわけです。
しかも穴の中にいっぺんにガバッ-と入れてじゃなくて、もう、それこそ面倒くさいごたるけれども、少しづつ少しづつ入れてはそれを粉にしていくというのである。 その事を頂いて、どういう事だろうかと私はわからなかったけれども、今ここで二十四節を頂かせてもろうてです、大勢掛け声で一度に力を揃えれば持ち上がる。バラバラでは持ち上がらぬぞ、家内中勢を揃えた信心をせよと。
家内中が信心になっ行くという事なんか大変に難しい事なんです。それがね、もう私はこうして一生懸命参りますけれども、嫁でも息子でもいっちょん反対はしませんちゅうごたる信心じゃいかんとですたい。
それはまあ有難い事ですけどね、その嫁なり孫なりがです、それなら、じっちゃまがお参りしょんならば、じっちゃま連れて行って下さいというような信心にならなければ力はない。只、反対せんというぐらいのこつじゃでけん。
だからもう本当にいっぺんたくりに、これは私のここでの体験ですけれども、あの椛目の地代にもう、本当に何というでしょうか、日の出の勢いのように、沢山の人が集まりましたよ。そしてもう、有難い有難いとどの位有難いかあらんけれども、というて家族中で参っておった人達が沢山ありましたけれども、そういうようにいっぺんにね、有難とうなったつは、いっぺんにさめてしもうた。
もう一家を挙げての信心が一家を挙げて止めてしもうた。そういう例がどの位あるか知らん。いやもう、筒井とか吉木とかもう村をあげての信心でした。その時分。
もういうなら、何というでしょうかねぇ、まああげんとが発効してござるというのでしょうねぇ。あそこはえらい発効してござると。もうよかと言や、もうそれにひとつの群集心理とでも言うてしょうか。もう参らん者が形見の狭かごたる。
吉木からもう今は参りする人はなくなってしまいました。筒井から、一人、二人時々お参りして来るぐらいの事。もうその時分のひとつの御ひれいでしょうけれどせ、それこそ石臼をひくように、いよいよ信心の有難さがわからせて頂いて、それから段々家族中に広がり親戚中に広がっていくといったような、段々広がっていったようなのでなからなければ長持ちしとりませんようです。
一時の火の手が上がったようなのは、又ス-ッとする。そういうの如何に勢を揃えたところで大した事は出来やしません。
そこで私はその、ひき臼を引く、少しづつ入れてそれをきれいな粉にしていくというその事からです、この精進努力という事。勿論自分自身がいよいよ信心辛抱しぬかせて頂いて、いよいよ有難うならせて頂いて、その有難いのがいつの間にか伝わって行く。
今私が、朝ここえ出仕して参りますと、今直子と幹三郎と二人一緒について来ます 別にどうも言うわけじゃないですけれども、幹三郎の後を直子がその翌日から引き受けたようにおかげを頂いておる。
幹三郎が今学院から帰って来とりますから、やっぱりおろそかにしちゃならんという気持でしょうか、やっぱり自分も帰って参りましたその翌日からついて参ります。 二人が並んでおる。私が前に座らせて頂いておる。その三十分間の間に私はどれ程心な中から「金光様有難とうございます。天地金乃神様有難とうございます」を唱えるかわからない。それこそ身が震うような有難いものが心の中にいっぱい広がってくる。そういう例えば有難いものに、とても子供が付いて来んはずはないと思うです。 参らにゃならん、どうせにゃならん、こうせにゃならん、おかげ頂くけん参れというだけではなくてです、本当に中心の信心をさせて頂く者の信心がです、その有難いというものがです、もう理とか得じゃないです。というものが漂う程しの有難さを目指させてもらうという事。それはついて来るなというても、ついて来なけりゃおられん程しのものに段々なんくるだろうと思います。
そういう例えば、そういう祈りを持ってです、ここでは人に誘われてのという事をそんなら誘うてはいけないという事ではない。自分自身が本当に有難い、有難いからそれを何かの機会に子供にでも孫にでも、自分の周囲の者にでも伝え話さなければおられない。そげなこつなら私もと。その時にはもう誘われてからじゃないです。
有難い話を頂いて、そんなら私もという事になるのですから、誘われてじゃないでしょうが。そのそんなら原動力になるお互いの各々の信心というものがです、私は大事だと思う。
大阪の名実共に日本一と言われる大きな教会があります。毎朝千人からのお参りがあるそうです。大した事です。それがどうして、そんなふうに多いかと言うとです、家族、店、会社をあげてからお参りをするそうです。
それはそこの教会の特色と言われておる。中心になる者が本当に信心の有難さがわかってくる。けれども自分の信心の欠けておる事、足りない事を実感したらそれを例えば主人でありならは、嫁に頼まんわけにはいかん、子供に頼まんわけにはいかん、店の人達にでも頼まんわけにはいかん。
大阪というところは商人の町ですから、まあ経済関係なんかが多いでしょうねぇ。 いついつまでの手形が何百万あるとするなら、とても人間の考えでは落ちそうにないから、君達もひとつ頼むぞと、朝一緒に参ってお願いをしてくれと、社長が言うもんですから、社員達がやはり社長の頼みですから聞かんわけにはいかん。
だから一家家族十人居るなら女中さんも番頭さんも小僧さんも一緒に朝参りをする だから、一家で二十人位お参りをする。もっと多いところもあるでしょう。ですから、そこに例えば主人が家内に頼むとか、主人が子供達に頼むというその頼まれるだけの、内容というものが出来ておらなければ出来んのです。その内容が出来ておらんと、頼むとかえって反対向く。そげなこつ言うて誰が言うこと聞くか。
だから日頃如何にね、その頼む人達の心というもの、いわゆる頼られておる自分という者の自覚、いつもお店の人から頼られておる、それを聞いておるというのでなからにゃ。
だからそこに店の店員に期せずして、そうしたあいよかけよというものが出来てくるのじゃないだろうか。いま主人が困っちやるから、そんならひと頑張り私共させて頂こうと。そしてそれが見事におかげ頂くそうです。
これはしかし取次者のお徳ですねぇ。それでも皆んなが勢を揃えて信心をさしてもらう。同時に取次者の力ですよねぇ。
ですから例えば、そんならその会社員であろうが、店員であろうが、女中さんであろうがです、ほう金光様ちゃあらたかなものじゃあるというを知るわけです。
ですから、自分達が嫁いったり又店を新たに作ったりする時には、又そこで、自分も一生懸命信心をする。又店の人達にも、家族の者にもそれを頼んで参っておる。
成程、こういう生き方でそれこそ鼠算のごだる。子が子を生んで行くというようないわば発展の状態だそうです。
だからそれは簡単なようですけれども、私は主人が家内に頼めるということ。父親が子供に頼まれるという事。父親の頼みなら聞かにゃおられん程しのものが、やはり中心の信心が出来ておらなければいけない。ああたが参ったっちゃ何にてなるのと、例えば家内が言うごたるなら、家内に頼みもされませんし頼んでも聞きもしません。 あなたがそうにゃ参るばってん、いっちょんおかげ頂かんじゃんのと家内が言うなら、もうそれぎりです。だから何とはなしに、成程家の主人が信心させてもらうが何とはなしに違うなぱりあれがおかげというかおかげを見せていき現していかなければいけん。
そしてそんなら、大急ぎで傾向するといったような意味の事をここで言われておりますようにです、いわゆる傾向する、傾向という事はその方に傾いていく。家内が信心が無いなら、信心の無いところまでひとつ倒れていく。お前どんがねえごつ言いよるかというのじゃなくて、そこまで傾向する。傾いていって、そこからそれを導いていくというような生き方が大事だという事になります。
昨日小郡教会の先生が書いておられるものを、少し見せて頂きましたが、あちらの先生は御養子で、御養子に見えた時には、もう本当に五十人以上の御婦人の信心さん方が、それを細々と続いておる。何か願いのある時しか参らんというような信者がわずかばかりであったという事です。
だから自分が養子に来てこれじゃいかんと思うて、まず何というても、そういう信者さんの師弟に目をつけた。子供達に目をつけた。そしていろいろな催しものなんかして子供達を、それはもうお日ぎんどもやるともう沢山一時は子供達が集まったけれども、結局は信心をさせて頂いておるところの子供だけしか残らなかったと。
だからその子供達に信心をいうなら、教えて行く事にならせて頂いた。もう、その子供が青年になって、そんなら教会の御用もさせて頂くようになった。そん為には私はその親達も申しました。現金光様の御教えの中に、子供と一緒に育てとおっしゃる言葉があります。子供と一緒に育て、子供が五才なら五才になれ、子供が十才なら自分も十才になれ。そして子供と一緒に育ってとこう言う。
いうならば、傾向する。そこまで倒れていく。お父さんが言うこつはお前どんにわかりゃせんがと、大きゅうなったらわかると、絶対わからんですそれでは。
信心はもう本当に子供の時から、そん為にはその子供と共に自分も育つ気にならにゃいかんです。そこにはです、例えば人に誘われてしょうことなしじゃなくてです、父親が一緒にそこまで下がってきて、そして一緒に手を取り合うて信心の稽古をさせて頂く。その精進とか努力とかいうものに子供達が、又周囲の者が、そんならその今の大阪の例をとりましたが、女中さんであろうが、番頭さんであろうが、その社員であろうがです、それに動かなければおられない程しの熱意というものがあるわけです ですからそんなら、私も連れて行ってくれという時には、もう誘うてという事ではない事になる。だから、さあお父さんと一緒に参ろうというような意味でじゃない、誘うてというのは、参らんというのを強引に誘うてというのだと思うですねぇ。
だから日頃信心を例えば見せておいてです、ここで誘えば一緒に参るという時に、ところをですよく心がけさせて頂いておかげを頂く。
この近所で小郡の教会の○少はまあ有名です。それには親先生達に子供のところまで、子供と一緒に育つ気になれという事を強調して、教導させてもらうという意味の事が書いてありました。
ですから、非常に辛抱のいる事、又は精進努力がいる事、それは丁度、石臼で米の粉をひくように、丹念に、それこそ、うまずたゆまず、これはやっぱりひきよらにゃいけん。しかもそんなら、ガバッとお前も参れお前も参れ、ごろごろひっぱっで来るというような事じゃなくて、もうそれこそ一人づつ自分に心を向けて来る子供なら、子供一人づつでもよいから、それを連れて来て、ははあ、例えば兄ちゃんを先に連れて来たなら、兄ちゃんがなる程僕もそんなら一緒に参ろうと、又弟が言うような教導それにはひとつ、少しづつ石臼の穴の中に入れていくという、そしてそれを立派な粉にしていくというです、そういう事がいうならば、願われるのではなかろうかと思います。
現金光様がおっしゃる。子供と共に育つという事、今日は二十五日夏休みの最後の思い出を作るといった意味合いでしょうか、今頃から幹部の方達が夜通しのようにして、いろいろな準備に大わらわである。それこそ涙ぐましい努力をしております。
それは大人から見ればそげなこつせんでんと、例えばやりすぎるところがあったりた、まちっとどうかと足りないところがいっぱいでしょう。
今夜○少の集いをして、だから親達にそのいろんな券を売ったり案内を皆さんが一人一人受けておったり、まあ、子供達がする事に大人が顔出すてんなんてん言わずに本当に子供と一緒に育つ。子供が楽しかなら、私もいっちょ楽しゅうふりなっとんさせてもらうてから、さあ今夜は皆さん早う行かにゃんばいと、子供達にそう言うくらいなです、心持ちでいかなければ、子供の信心は育ちません。
いや子供だけじゃない信者の子供達も育ちません。いわゆるその傾向する。そういう例えは大勢一度に力を揃えて、持ち上がらぬものですです、バラバラでは持ち上がらぬ。家内中勢をそろえてという事は、家内中だけの事ではありません。
そんなら教会の場合でもこうやって、御造営という事にでも取り組んどります。西脇殿御造営成就の為に、そんなら合楽にそういう本気での思いの人達が、その事を祈るという事になれはです、それが大きな力になる。
ちょこっとばっかり御造営費のお供えしたけん、それで済んだごたる事じゃいかん それが信心なんだ。だからそういう例えば、信心、そういう力を少しづつでもいけていこうという人達を、そんならよい粉をひいていこうと言う事になるとです。
これには今申しました、様々なお互いの家族勢を揃えて、信心をするという事、でもいろんな工夫と精進と、努力が必要であるという事。
そして各々がです、その身から打ち込んでの信心、しかも真の信心をせよとこう教えておられる。その真の信心を目指す。しかもその身から打ち込んで、しかもそれが家族の中でも一人づつ本当な信心を目指す者が出来てくる為のおかげを頂く為に、その中心になる者の、それは石臼をひくようにです、そういう努力精進というものが、いっぺんにガバッとというような気を起こさずに、もう、それこそ丹念に辛抱強く、いわゆる迷わず失わずという中心の者の信心。
中心の者が。ね、ぐらぐらしたり迷うたりしよるような事じゃ、とてもついてきません。そのうまずたゆまず、又は迷わず失わずというようなないようの信心をしかも芯のところにピッチリと焦点を置かれて、そして頼むでも願うでも、頼れ願われる内容というものを、例えば店員の上にでも子供達の上にでも、家内と主人の上にでも、そういうものを作っておく精進を日頃しておいて、いよいよの時には、これはお前もいっちょ、どうでんこんでん参って一緒に御祈念してくれ。一緒に信心してくれ、力を貸してくれと言えれる信心。それは共々に助かっていけれる為の事なのですから。 そういう信心を頂きたい。今晩の○少の集いなんかでも、どうぞ、そういう意味でです、ひとつ奉讃させてもらう。いわゆる子供と共に育つというような思いをもってひとつ今晩の子供達のよい思い出になるような、賑やかな集いになる事を祈り願わせて頂いておるのですから、皆さんもどうぞ、そういうつもりで子供と一緒に育つ、そういうつもりでひとつ御参加を頂きたいと思います。
どうぞ。